活動報告:2004年
佐世保・新宿事件に寄せて
2004-07-20
長崎県佐世保市、東京都新宿区で起きた2つの事件に関して、2004年7月20日(火)、教育総研の名前でアピールを発表しました。
東京新宿での13歳少女による幼児突き落とし事件は、新渡日(ニューカマー)の子どものおかれている状況を示したものである。報道によれば、少女は、「二つの国で『異国人』扱いされ、排除された」という。少女は本事件までにも問題行動を重ねていたと言われるが、これは少女のSOSであったと思われる。
1990年あたりから日本で生活する新渡日の外国人が急速に増え始め、現在では外国人登録者は200万人近くに達するといわれる。学校に在籍する外国籍(ないし外国にルーツをもつ)子どもも増え、従前から指摘されてきた、彼/彼女らの学習権をどのように保障するかという課題が、より大きくなってきている。多文化共生教育が謳われてはいるが、それを有効なものにするためには、外国籍ないし外国にルーツをもつ彼/彼女らの固有性・アイデンティティーを大切にすることが出発点である。しかしながら、現状でも、せいぜい日本語指導と適応指導にとどまり、彼らをエンパワーメントするための、子どもの権利条約に保障されているアイディンティティー保障やインクルージョンのための教育は、ほとんどなされていない。逆に彼らは「日本人化」することを求められており、このことは、彼/彼女らにアイデンテイティと、人との関係づくりの危機をもたらしている。
こうした外国籍あるいは外国にルーツをもつ子どものアイデンティティーの危機は、比較的見えやすい。が、実は、このことは日本人の子どもについても本質的には同じである。アイデンティティーの危機とは、「自分があるがままの自分であること」が肯定されない状態であり、個人の尊厳が大切にされていない社会、そして人と人とのかかわりが絶たれてしまう社会がもたらす危機である。
長崎県佐世保市での小学6年生の同級生殺害事件に関して、あるカウンセラーが、「to be(being)ではなく、becomingばかりが強調され、この緊張に耐えられなくて、心のトラブルという形でSOSを発信している。自分が自分のあるがままに受け入れることが大切で、『ダメなところがあってもそれがあなただ』という全部をひっくるめた自分を抱きしめて、というメッセージを常に送ることが大切である」と解説していた(毎日新聞04年6月24日)。また、別のカウンセラーは、「子どもはいつも元気なよい子であることを求められ、無意識のうちに「怒り」や「悲しみ」を心の中に閉じ込め、大人が望むように自分を合わせる。そんななかで感情が爆発、子どもの苦しみを受け止めることが大事である」と指摘して、これまでインタビューには応じないでいたが、今後ますます「いい子にしましょう」という対応策を求める危険を指摘するため、インタヴューに応じたと語っている(毎日04年6月7日)。
私たちはこの発言の共感するとともに、事件がおきるたびに、「心の教育」が強調されることに疑問を持っている。前述したように、「心の教育」はむしろ逆にストレスを膨らますだけである。必要なのは、子どもたちが「自分は自分である」と自己を肯定的に受け止められるようにできる対応である。エンパワーメントとは、本来その人が持っている自らの力を活性化させることであり、「あるがまま」というアイデンティティーを機軸にしないとエンパワーメントできないはずである。「個人の尊厳」の基本は、まさにここにある。
長崎県は、2003年の長崎市での幼児突き落とし殺害事件の後、「命の大切さ」を教える「心の教育」に力を入れてきたという。しかし「心の教育を徹底してきたつもりだったが、子どもたちの心に響いていなかった」(佐世保市立大久保小校長の話、毎日04年6月27日)わけである。命の大切さ・尊さ・重さ、そしてはかなさを、徳目を中心とした「心の教育」で「指導」して「教え」て「わからせる」ことができる、と考えること自体に問題があるというべきではないだろうか。それは、たとえば人がいたずらに殺されているイラクや自殺多発社会日本のリアルな現実に目を向けつつ、生活的な経験をともなう「感性的な了解」によって子どもたちの内側に紡がれるものである。それゆえに、「総合学習」のような参画型の学習機会を拡充するなど、教育のあり方そのものを根本から見直すことが求められているのではなかろうか。
事件の原因を子どもたちに求め、子どもたちを「いじくりまわす」対策を教育としておこなうのは、止めにしよう。社会を、大人の生き方を、子どもたちが自己肯定感をもって生き育つことができるように変えていくことこそが、肝要である。こうしたことは、「個人の尊厳」(憲法・教育基本法)に基づく教育を現実化していくことで可能となることを、改めて確認したい。
1990年あたりから日本で生活する新渡日の外国人が急速に増え始め、現在では外国人登録者は200万人近くに達するといわれる。学校に在籍する外国籍(ないし外国にルーツをもつ)子どもも増え、従前から指摘されてきた、彼/彼女らの学習権をどのように保障するかという課題が、より大きくなってきている。多文化共生教育が謳われてはいるが、それを有効なものにするためには、外国籍ないし外国にルーツをもつ彼/彼女らの固有性・アイデンティティーを大切にすることが出発点である。しかしながら、現状でも、せいぜい日本語指導と適応指導にとどまり、彼らをエンパワーメントするための、子どもの権利条約に保障されているアイディンティティー保障やインクルージョンのための教育は、ほとんどなされていない。逆に彼らは「日本人化」することを求められており、このことは、彼/彼女らにアイデンテイティと、人との関係づくりの危機をもたらしている。
こうした外国籍あるいは外国にルーツをもつ子どものアイデンティティーの危機は、比較的見えやすい。が、実は、このことは日本人の子どもについても本質的には同じである。アイデンティティーの危機とは、「自分があるがままの自分であること」が肯定されない状態であり、個人の尊厳が大切にされていない社会、そして人と人とのかかわりが絶たれてしまう社会がもたらす危機である。
長崎県佐世保市での小学6年生の同級生殺害事件に関して、あるカウンセラーが、「to be(being)ではなく、becomingばかりが強調され、この緊張に耐えられなくて、心のトラブルという形でSOSを発信している。自分が自分のあるがままに受け入れることが大切で、『ダメなところがあってもそれがあなただ』という全部をひっくるめた自分を抱きしめて、というメッセージを常に送ることが大切である」と解説していた(毎日新聞04年6月24日)。また、別のカウンセラーは、「子どもはいつも元気なよい子であることを求められ、無意識のうちに「怒り」や「悲しみ」を心の中に閉じ込め、大人が望むように自分を合わせる。そんななかで感情が爆発、子どもの苦しみを受け止めることが大事である」と指摘して、これまでインタビューには応じないでいたが、今後ますます「いい子にしましょう」という対応策を求める危険を指摘するため、インタヴューに応じたと語っている(毎日04年6月7日)。
私たちはこの発言の共感するとともに、事件がおきるたびに、「心の教育」が強調されることに疑問を持っている。前述したように、「心の教育」はむしろ逆にストレスを膨らますだけである。必要なのは、子どもたちが「自分は自分である」と自己を肯定的に受け止められるようにできる対応である。エンパワーメントとは、本来その人が持っている自らの力を活性化させることであり、「あるがまま」というアイデンティティーを機軸にしないとエンパワーメントできないはずである。「個人の尊厳」の基本は、まさにここにある。
長崎県は、2003年の長崎市での幼児突き落とし殺害事件の後、「命の大切さ」を教える「心の教育」に力を入れてきたという。しかし「心の教育を徹底してきたつもりだったが、子どもたちの心に響いていなかった」(佐世保市立大久保小校長の話、毎日04年6月27日)わけである。命の大切さ・尊さ・重さ、そしてはかなさを、徳目を中心とした「心の教育」で「指導」して「教え」て「わからせる」ことができる、と考えること自体に問題があるというべきではないだろうか。それは、たとえば人がいたずらに殺されているイラクや自殺多発社会日本のリアルな現実に目を向けつつ、生活的な経験をともなう「感性的な了解」によって子どもたちの内側に紡がれるものである。それゆえに、「総合学習」のような参画型の学習機会を拡充するなど、教育のあり方そのものを根本から見直すことが求められているのではなかろうか。
事件の原因を子どもたちに求め、子どもたちを「いじくりまわす」対策を教育としておこなうのは、止めにしよう。社会を、大人の生き方を、子どもたちが自己肯定感をもって生き育つことができるように変えていくことこそが、肝要である。こうしたことは、「個人の尊厳」(憲法・教育基本法)に基づく教育を現実化していくことで可能となることを、改めて確認したい。
2004年7月20日
国民教育文化総合研究所
国民教育文化総合研究所